熊野古道紀伊路 ロングトレイルの歩き方 5日目 湯浅駅~御坊駅(総歩行距離:23.4km)
宿場町としてにぎわった湯浅から紀伊路最大の難所といわれた鹿ヶ瀬(ししがせ)峠を目指します。井関宿跡、河瀬(ごのせ)王子、汗かき地蔵の祀られている地蔵寺を過ぎると本格的な峠越えとなり、360mの峠を越えた先には石畳の道が現れます。古の旅人の足音が聞こえてきそうな雰囲気を感じながら、黒竹の里として有名な原谷を抜け、高家(たいえ)王子でちょっと一息。うっそうとした竹藪の中にある愛徳山王子、そして国宝千手観世音菩薩や安珍清姫伝説のある道成寺へ向かい、最後は海士王子を経てゴールの御坊駅へ。道成寺では門前町でお土産を楽しむこともできます。
※体力に自信のない方は途中の高家王子から最寄りである紀伊内原駅に向かうこともできますが、紀伊内原駅周辺には宿泊施設がないため、御坊方面または湯浅方面に列車で移動して近隣で一泊し、翌日紀伊内原駅に戻る必要があります。
- 春
- 夏
- 秋
- 冬
- 所要時間
- 1日
- 移動手段
- 徒歩
湯浅駅(ゆあさえき)
久米崎王子(くめさきおうじ)
承久三年(1210年)に藤原頼資(よりすけ)が参拝した記録が残っていますが、その後は上皇や女院の熊野御幸は行われなくなり、嘉偵二年(1236年)には、跡形も無くなりました。江戸時代に紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)が小社を再興しました。明治40年(1907年)に顯國(けんこく)神社に合祀され、現在は石碑が残るのみとなっています。
津兼王子(つがねおうじ)
建仁元年(1201年)に藤原定家が井関王子へ立ち寄ったことが日記に記されており、江戸時代の『紀伊続風土記』には、井関王子は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子であると記しています。また近世に入り、街道が西寄りに付け替えられたことにより、新しく津兼王子が設けられましたが、明治41年(1908年)に津木八幡神社に合祀されました。平成6年(1994年)に広川インターの敷地内に建てられた石碑は当地域に王子があったことを伝えています。
井関宿跡(いせきしゅくあと)
熊野詣で人々が立ち寄る宿場町として、旅籠が軒を連ね、にぎわいを見せた井関宿。現在は閑静な住宅地となり、参詣道に沿って、宿の屋号や、馬が休憩を取った養生場跡などが見られます。江戸時代の井関が描かれた絵巻物を再現したパネルも掲げられ、当時の様子に思いを馳せながら古道歩きを楽しめます。
河瀬王子(ごのせおうじ)
藤原定家が建仁元年(1201年)に「ツノセ王子」に参拝したと記し、江戸時代の『熊野道中記』でも「津の瀬王子」と記されています。江戸時代に王子のあった村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられています。明治41年(1908年)に津木八幡神社に合祀されましたが、平成27年(2015年)に「河瀬王子跡」として、国指定史跡となっています。
※熊野古道紀伊路押印帳のスタンプポイント
地蔵寺(じぞうじ)
河瀬(ごのせ)王子を過ぎると、左手に現れる延命山地蔵寺。鎌倉時代前期に制作された木造地蔵菩薩立像を本尊とし、汗かき地蔵の名でも知られます。その名の由来は、峠へ向かう参詣者の背中を押して助けたために汗をかいたとの言い伝えから。紀伊路の中でも道の険しい鹿ヶ瀬峠に向かう前に無事を祈って参拝を。
東の馬留王子(ひがしのうまどめおうじ)
江戸時代の『熊野道中記』には、沓掛王子と記されていましたが、『紀伊続風土記』では、それは誤りだとして馬留王子社と書かれています。明治時代には、馬留王子神社となりましたが、その後、津木八幡神社に合祀されました。名の由来は、この先の鹿ヶ瀬峠が険しく、馬で越えることが出来ないため、馬を留めたことによると伝えられています。
鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)
標高360m。「次またシシノセの山を昇る、崔嵬の険阻(さいかいのけんそ:石や岩がごろごろして険しい様子)」と、藤原定家を嘆かせた紀伊路の難所です。峠越えが難しく馬を留めた「東の馬留王子」や、今昔物語などの伝承の舞台となっている「法華壇」を過ぎ、茶屋跡を残す頂へ。そこから峠を下り始めると、現存する熊野古道紀伊路最長の石畳道が続きます。平成27年(2015年)に国指定史跡となりました。
沓掛王子(くつかけおうじ)
藤原定家が建仁元年(1201年)に「沓カケ王子」に参拝したことが日記に記されており、王子の名は峠越えのために藁沓(わらぐつ)を履き替えたことに由来すると言われています。江戸時代には鍵掛王子(かぎかけおうじ)と呼ばれたこともありますが、明治10年(1877年)に原谷皇太神社に合祀されました。
西の馬留王子(にしのうまどめおうじ)
馬留王子の名が見られるのは江戸時代になってからです。沓掛王子と内ノ畑王子の間にあることから、「はざま(間)王子」とも呼ばれていました。馬留王子は鹿ヶ谷峠の東と西の二か所にありますが、区別するために東の馬留王子、西の馬留王子と称しています。
明治40年(1907年)に原谷皇太神社に合祀されました。
内ノ畑王子(うちのはたおうじ)
藤原定家は建仁元年(1201年)に「内ノハタノ王子」で木の枝を切って槌を造り、榊の枝に結びつけたと記しています。こうした風習により旅の安全を祈願したことから槌王子(つちおうじ)とも呼ばれていました。現在地からほど近い場所に槌王子という地名の字(あざ)があり、ここへ移されたと推定されています。明治41年(1908年)に今熊野神社に合祀されました、その後内原王子神社に合祀されました。
高家王子(たいえおうじ)
高家(たいえ)荘(池田、高家、原谷、萩原、荊木)の総社であったことから、高家王子と称していましたが、明治2年(1869年)に皇子皇太神宮と改め、同6年(1873年)に王子神社になりました。熊野詣の際は皇族の宿泊所や休憩所として使われたと伝わり、今でも境内は当時の面影を色濃く残しています。 ※熊野古道紀伊路押印帳のスタンプポイント
愛徳山王子(あいとくさんおうじ)
建仁元年(1201年)に藤原定家は「愛徳山」と記しており、古くから当地に存在していたことがわかります。嘉暦元年(1326年)の『熊野縁起』には准五体王子であるとも記されています。明治41年(1908年)に吉田八幡神社に合祀されました。また、平成30年(2018年)には愛徳山王子跡北東参詣道として国指定史跡となっています。
吉田八幡神社(よしだはちまんじんじゃ)
九海士(くあま・現在の御坊市)で生まれ、文武天皇の妃となった宮古姫。姫の父母である海女の夫婦は、子宝に恵まれないことから氏神の八幡宮に祈り、宮古姫を授かりました。毎年秋に行われる顕彰祭では、姫や男官、女官などに扮した人々が天平時代の衣装に身を包み、道成寺から吉田八幡神社の間を練り歩きます。
道成寺(どうじょうじ)
文武天皇の勅願により、大宝元年(701年)に創建された和歌山県内最古の寺。国宝・千手観音菩薩像をはじめ、文化財指定の仏像が多数安置されています。能や歌舞伎、浄瑠璃の演目「安珍清姫物語」の舞台としても知られ、絵巻「道成寺縁起」の写本を使って、僧侶が悲恋物語を伝える絵とき説法が参拝者に人気です。
※熊野古道紀伊路押印帳のスタンプポイント
海士王子(あまおうじ)
古くは「クハマ」、「久和万」、「桑間崎」、「九海士」などと呼ばれていた王子であり、名は道成寺に祀られている観音像を海から海士が引き上げたことに由来すると伝わっています。明治41年(1908年)に吉田八幡神社に合祀されましたが、王子に祀られていた御神体の木像は道成寺に移され「宮子姫」の像として祀られています。
御坊駅(ごぼうえき)
本日のゴールです。駅周辺には地元のグルメが楽しめる飲食店もたくさんありますので街に出て食事を楽しむのもよいでしょう。
特産品紹介: 稲むら最中(いなむらもなか)
稲むら最中は、わがまち元気プロジェクトで生まれた和菓子で、箕島高等学校の生徒が考案・企画し、広川町と地元企業がタッグを組んで商品化された物です。「塩」と「みかん」の2種類の味があり、塩あんは、西広海岸の海水からできた天然塩を使用し、みかんあんは有田みかんを使用し、みかんのさわやかな風味にみかんピールがアクセントになっている逸品です。
特産品紹介: 黒竹(くろちく)
熊野古道の史跡が数多く残る原谷地区は、全国有数の黒竹の生産地。外皮が黒く、幹が細い黒竹を、職人が高温の炎であぶって磨き上げ、深みのある艶を出します。昔から室内や家具の装飾材、垣根、庭の植え込みなどに用いられてきましたが、最近では箸やボールペンなどの民芸品も登場。地元の工房では手作り体験が行われています。
特産品紹介: クエ料理(くえりょうり)
和歌山の冬の美味といえばクエ。水揚げ量が少なく、“幻の魚”といわれますが、日高町では希少な天然ものがいただけます。グロテスクな風貌とは裏腹に、脂の乗った白身は上品で深みのある味わい。身と皮の間のゼラチン質はコラーゲンがたっぷりです。薄造りから握り、天ぷら、鍋までフルコースで、クエを余すことなく味わい尽くしてみては。
特産品紹介: つりがね饅頭(つりがねまんじゅう)
「安珍清姫物語」で安珍が清姫から身を隠した釣鐘がモチーフとなった、道成寺ゆかりの銘菓。お寺周辺には日高川名物として扱うお店がいくつもあります。鐘型のしっとりとした生地の中には黒あんや白あんが詰まり、二口ほどで食べられる手ごろなサイズなので、古道歩きのお供にも。梅あんなどお店によってオリジナルの味が楽しめます。