「古事記・日本書紀」に登場する和歌山の名所!エピソードから巡る歴史散策
1,300年以上も前に編纂された「古事記」「日本書紀」(記紀)に綴られた物語の中には、和歌山県に縁の深い神社やスポットが多数あります!あなたも神話の源流を訪ねる旅に出かけてみませんか?
「古事記」と「日本書紀」その違いとは?
古事記と日本書紀は、しばしば「記紀」と称されますが、同じようで実はまるで違う歴史書です。同じ逸話でも人物描写や呼び名が異なる場合があります。記紀を巡る旅へ出かける前に違いやみどころを知っておきましょう。
「古事記」日本最古の歴史書 〜神々の物語と天皇の系譜〜
第40代天武(てんむ)天皇は、天皇を中心とした政治体制の整備にとりかかります。しかし、歴代天皇の即位から崩御までを記録した「帝紀(ていき)」や神話などの伝承を記録した「旧辞(きゅうじ)」などの歴史書は、多くの人が加筆した結果、歴史書としての価値に疑問符がつくようになったため、新たな歴史書(古事記)を編纂(へんさん)することにし、天武天皇は聡明な稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じ、それらを整理させました。ところが整理にかなりの時間を要し、天武天皇の在位期間には完成かなわず、第43代元明(げんめい)天皇の代まで引き継がれます。
元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に未完成だった古事記の編纂を命じ、712年(和銅5年)にようやく完成しました。完成した古事記は上・中・下の3巻から成り、上巻はイザナギやイザナミなどの神話、中・下巻では初代神武(じんむ)天皇から第33代推古(すいこ)天皇までの事業が記されています。
古事記には、日本の成り立ち、日本人や天皇とは何なのかといった日本人のルーツを後世に伝え、夫婦関係、人間関係の在り方などが記載されているところに面白みがあります。古事記を知ることは、日本という国の歴史を知ることであると同時に、日本人の起源や価値観を知るということなのです。
「日本書紀」国家の公式な歴史書 〜神(天皇)の国である日本を海外にアピール〜
天武天皇は稗田阿礼に編纂を命じた「帝紀」、「旧辞」とは別に、息子の舎人親王(とねりしんのう)や忍壁皇子(おさかべのおうじ)、天智(てんぢ)天皇の子・河嶋皇子(かわしまのおうじ)など12名に命じ、「帝紀」、「旧辞」に各地の風土や貴族の個人的な記録、中国や朝鮮の史書も加えたうえで、国の歴史をまとめることにします。
これが日本で初めて天皇の命によってまとめられた国史、""勅撰国史(ちょくせんこくし)""であり、1,300年以上も前に編纂された日本書紀です。古事記と大きく違うのは、全30巻に天皇の系図1巻を加えた構成で、神代の時代は1、2巻のみ、残り28巻は初代神武天皇から第41代持統(じとう)天皇まで、天皇の業績や歴史上の出来事が年代順で記されています。
古事記は天皇家統治の正当性を国内に示すために編纂されたと考えられていますが、日本書紀は天皇の記述が多く、漢文で書かれていることから、当時交流のあった中国など諸外国に、日本は神の御子(みこ)である天皇が支配している国であることをアピールするために編纂されたと考えられています。
和歌山を巡る 記紀・9つの物語
古事記、日本書紀には和歌山の観光スポットが多く登場します。物語を知ってから現地を訪れれば見え方も変わってくるはず。和歌山と関係性の深い記紀の9つの物語を軸に関連スポットもあわせてご紹介します!
【1】「天磐戸の神話」アマテラスが磐戸から出るきっかけとなった八咫鏡
古事記、日本書紀に記されている神話の代表的なものと言えば、アマテラスの天磐戸の物語。アマテラスには乱暴な弟、スサノオがいたのですが、ある時、あまりの乱暴ぶりに耐えかねたアマテラスは、とうとう天磐戸に閉じこもってしまいます。これにより世界は闇に包まれてしまったため、高天原(たかまがはら)(天上界)の神々は集まり、対応策を話し合いました。その結果、神々のひとりであるオモイカネの発案にしたがい、天香山(あまのかぐやま)から採掘した鉱物を使って鏡を造ることに。鋳造を担当したのはイシコリドメで、鏡は日神(ひのかみ)・アマテラスの像をかたどったものといわれています。こうして誕生したのが八咫鏡(やたのかがみ)で、現在、天皇家に伝わっている三種の神器のひとつです。
磐戸の前では神々が宴を催し、賑やかさが気になったアマテラスは、磐戸の扉を少し開けて外の様子を覗こうとしました。隙間の前には八咫鏡。アマテラスは鏡に映った自分の姿に一瞬たじろぎ、その機にアメノタヂカラオという力持ちの神が扉を開け、アマテラスを外へ出すことに成功。世界に明るさが戻ったのでした。
「和歌山市」2体の宝鏡が鎮座する神話の舞台へ
三種の神器として、アマテラスの孫のニニギが地上に降臨した(天孫降臨)際に授かった八咫鏡ですが、この時、日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)という2体の宝鏡も添えられたと伝えられています。八咫鏡は、こののち伊勢神宮に奉祀されることになりますが、日像鏡と日矛鏡は伊勢神宮に奉祀されていません。ではどこへ?
日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮の御由緒には「天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀された」とあります。つまり、鏡は鋳造されたのち、天孫降臨の際に紀伊国造家(きいのくにのみやつこけ)の祖アメノミチネが2体の宝鏡を授けられ、現在の和歌山市にある日前神宮・國懸神宮の祭神としてお祀りしたと伝えられているのです。
このように、日前神宮・國懸神宮は祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢神宮に次いで朝廷からの崇敬が篤く、古くから「紀伊国一之宮」として多くの人々からの崇敬を集め、両神宮は通称「日前宮」として、親しみを持って呼ばれています。
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主祭神は紀伊国造家の遠縁?中言(なかごと)神社
日前宮の境内にある中言神社の主祭神は名草彦と名草姫の夫婦神です。そして、神武東征の際にカムヤマトイワレビコと戦った紀伊国の豪族・名草戸畔(なぐさとべ)の祖先です。また、名草彦は紀伊国造家の遠縁であるとの説もあります。境内には、茶道や書道など伝統芸術の上達にご利益があるとされる「黒牛の水」が湧き、今も大切に守られています。
【2】緑豊かな紀伊国を創りし木の兄妹神
豊かな緑に包まれる和歌山県。紀伊国(木国)と呼ばれてきたそのルーツは、まさに樹木でした。
そしてこの地には、日本列島を緑なす国へと変えていった兄妹神の物語があったのです。
天磐戸の騒動が一件落着したのち、高天原(天上界)の神々は相談し、乱暴を極めたスサノオを高天原から追放することにしました。スサノオはやがて出雲国に降臨し、ヤマタノオロチを退治します。このときヤマタノオロチのしっぽからひと振りの宝剣を得るのですが、これが三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
出雲国への降臨については、日本書紀に別の話も伝わっています。スサノオは息子のイタケルを連れて初めは新羅(当時の朝鮮半島にあった国のひとつ)に降臨します。しかしその地が気に入らず、海路で出雲国へ入ったというのです。このイタケルは、スサノオとともに最初に降臨した際、たくさんの樹木の種を持っていました。その種は新羅の地では育たなかったため、種を持って日本へ戻り、筑紫国(福岡県)あたりから順にその種を蒔き、日本列島を緑なす国へと変えていきました。そうして最終的に、紀伊国にたどり着いたそうです。
これが紀伊国のルーツといわれています。古事記では、紀伊国を「木国」と表記しています。当時から和歌山県は、木の豊富な地域として知られていたのでしょう。
「和歌山市」緑豊かな「木国」のルーツ
イタケルには、オオヤツヒメとツマツヒメという妹神がいました。彼女たちも兄と同じように、たくさんの樹木の種を蒔いたそうです。紀伊国に鎮座したイタケルは和歌山市にある伊太祁曽神社に祀られ、木の神として崇められています。また妹神二神と合わせ、三神は全国の林業関係者から伊太祁曽三神と呼ばれており、この地が木の神の住む国、つまり木の国、やがて転じて紀伊国となったそうです。
日本書紀第五巻の異伝では、スサノオと樹木に関する記述もあります。降臨したスサノオは「日本に浮宝(うくたから)(船)がないのはよくない」と言って、ひげを抜いて蒔くとそれが杉になったそうです。また胸毛は檜になり、尻の毛は柀(まき)(槙)に、眉毛は楠にと、たくさんの種類の樹木を生み出します。そうして杉と楠は船の用材に、檜は宮殿の用材にせよ、木の実をたくさん蒔き植え食料とせよと言ったのでした。
- 都麻津姫(つまつひめ)神社
- 姉神のオオヤツヒメとともに兄イタケルを助け、日本中にたくさんの樹木を植えたツマツヒメ。全国で植樹したのちに紀伊国に鎮座し、地域最古社「都麻津姫神社」の御祭神として祀られています。ツマは建築用材を意味するとも考えられることから、建築の神様としても篤く崇敬されています。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 伊太祁曽(いたきそ)神社
- 紀伊国に鎮座したイタケルはその後、伊太祁曽神社に御祭神として祀られました。神社の脇殿には、オオヤツヒメ、ツマツヒメも祀られています。境内にはイタケルの荒御霊(あらみたま)(荒々しい魂)を祀る氣生(きしょう)神社もあるので、併せて参拝しましょう。森に囲まれた境内は、まさに木の国の雰囲気です。
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- 髙積(たかつみ)神社
- 中央にオオヤツヒメ、左右にイタケル、ツマツヒメと、兄妹三神を主祭神として祀っていることから、「高三所(たかさんしょ)大明神」とも呼ばれています。地元の産土神(うぶすながみ)として信奉されており、標高237mの高積山の麓に三神が鎮座する下の宮(写真)、そこから山を登った場所に上の宮の本殿があり、静謐(せいひつ)な雰囲気が漂います。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
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伊太祁曽(いたきそ)神社にある鳥上峯(とりがみみね)の石
樹木の種を持って新羅から出雲へ向かったスサノオとイタケルは、最初に鳥上峯と呼ばれる場所へ降り立ったと伝わっています。伊太祁曽神社境内でスサノオを祀る祇園神社の石段横には、その鳥上峯の石を運び、祀ってあります。苔むした姿を見て、遠く神話の時代へ思いを馳せてみませんか。
【3】神武東征遙かなる天下平定の道
神代の時代から天皇の時代への分岐点、それが神武天皇東征の物語です。豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)(日本)を治めよと、アマテラスはニニギを日向国(宮崎県)高千穂に天下らせます。それから三代ののち、カムヤマトイワレビコの時代に入りました。しかし、豊葦原瑞穂国を治めるために天下ったにもかかわらず、治めることができているのはまだ九州のみ。そこでカムヤマトイワレビコは、日本全土を平和に治める都を置くための最適な場所を探す旅に出ます。
青山に囲まれた美しい国が東方にあり、そこに自分と同じアマテラスの系譜の天孫であり、天磐船(あまのいわふね)で地上に降りたニギハヤヒがいるという。そこでカムヤマトイワレビコは長兄のイツセらとともに軍隊を従え、東を目指して日向を出発したのでした。
まずは宇佐(大分県)へ。そこで歓迎を受けてしばらく留まったのち、筑紫(福岡県)を経て、安芸(広島県)、吉備(岡山県)と、瀬戸内海を船で東へ。そして大阪湾から難波を経て河内国(大阪府)に入った時のこと、地元の豪族である長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗に遭い、イツセが負傷してしまいます。日神(ひのかみ)の御子(みこ)なのに、太陽に向かって戦ったからでした。そこでカムヤマトイワレビコの軍勢は、太陽を背にして戦うため、紀伊国への迂回を余儀なくされます。
カムヤマトイワレビコ 激戦の地「和歌山市」と「海南市」
重傷を負ったイツセは、紀伊国を目前にした男之水門(おのみなと)あたりで死去してしまいます。紀元前663年5月のことでした。死の間際にイツセは雄叫びを上げたといわれ、この故事から男之水門のことを雄水門(おのみなと)と呼ぶと、日本書紀には記されています。イツセの亡骸は、紀伊国竈山の地に葬られました。そこが現在の和歌山市和田にある竈山神社です。
兄を失ったカムヤマトイワレビコの軍勢は、紀伊国名草邑(なぐさむら)(和歌山市名草山周辺)に到着。そこで地元の豪族・名草戸畔(なぐさとべ)を倒したのち、さらに南へと進んでいきます。その後もどんどん海路を南下し、初代・神武天皇誕生へとつながってゆく運命の地、熊野へと至るのでした。
- 宇賀部(うかべ)神社
- カムヤマトイワレビコに敗れた名草戸畔の頭部が村人によって祀られたと伝えられ、古くから頭の守護神「おこべ(頭)さん」と呼ばれ、頭病平癒の宮として崇められています。また神社のある山には戦国時代まで小野田城があり、現在はわずかに遺構が残されています。
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- 竈山(かまやま)神社
- 瀕死の痛手を負い、男之水門で雄叫びを上げたイツセはその後、男之水門あたりで息絶えたと伝わり、そのまま葬られました。それが現在の竈山神社であると日本書紀に記されており、本殿の裏がイツセの御墓(みはか)といわれています。御祭神の脇殿にはカムヤマトイワレビコも祀られています。
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- 杉尾(すぎお)神社
- カムヤマトイワレビコに敗れた名草戸畔の身体は頭、胴、足に分けられ、胴は杉尾神社に祀られたと伝えられています。これが「おはら(腹)さん」と呼ばれている由来のひとつで、地域には「お腹痛けりゃ杉尾のお宮〜。」という歌もあるほど。お腹、つまり食事ということから、当社には大きなしゃもじも奉納されています。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
【4】神武東征 八咫烏の導きで初代天皇に
熊野へと向かった一行は、狭野(さの)(新宮市佐野付近)を越え、神邑(みわのむら)に到着して天磐盾(あまのいわたて)に登り、さらに進みます。しかしその前に、熊野灘で猛烈な暴風雨に見舞われて漂流し、次兄、三兄も亡くし、カムヤマトイワレビコは息子と軍を率いて熊野の荒坂津(あらさかつ)に上陸。ここで地元の豪族・丹敷戸畔(にしきとべ)を倒しますが、待ち構えていた土地の神々の霊気により一行は次々に意識を失い、倒れ込んだそうです。そこへ熊野の高倉下(たかくらじ)という者が剣を持って現れます。カムヤマトイワレビコがその剣を手にすると、軍勢がみな目覚めたばかりか、荒ぶる神々もすべて倒れたのでした。高倉下が持ってきた霊剣・布都御魂(ふつのみたま)は、天神(あまつかみ)たちがカムヤマトイワレビコのために地上へ降ろしたひと振りだったのです。
高倉下は言いました。「夢の中でアマテラスとタカギノカミが、タケミカヅチに『豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)(日本)が騒がしいようだ。お前が行って手助けしてやれ』とおっしゃった。そこでタケミカヅチは『私が行かなくても剣があれば大丈夫です。この剣は高倉下の倉庫に置いておきましょう。おい、高倉下、この剣をカムヤマトイワレビコ様にお届けせよ』とおっしゃり、夢から覚めてお告げどおりに倉庫に行くと、本当に剣があったので持ってきたのです」。
八咫烏の先導で大和国へ。天皇となるべきあまたの試練を乗り越えて。
かくしてカムヤマトイワレビコは熊野での苦難を乗り越え、タカミムスビが彼のために遣わした八咫烏の先導で、熊野川を進んで行きました。
日本書紀によると、大和国へ入った一行は吉野から宇陀(奈良県)を、戦いながら進んだそうです。そしてついに、兄イツセを死に追いやった宿敵長髄彦(ながすねびこ)と戦うことに。先の戦で兄が敗れたのは、日神(ひのかみ)の御子(みこ)であるにもかかわらず太陽に向かって戦ってしまったからでした。そこで今回は太陽を背に宿敵と相まみえ、打ち負かします。この時、もうひとりの天孫であり、長髄彦の娘婿だったニギハヤヒは、カムヤマトイワレビコに帰順します。
ようやくすべての敵を倒し、豊葦原瑞穂国を平定したカムヤマトイワレビコは、畝傍山(うねびやま)(奈良県)の南東にある白檮原宮(かしはらのみや)で初代・神武天皇として即位。これより、現代に続く天皇の歴史が始まったのです。
「田辺市」「新宮市」「那智勝浦町」神々が棲まう、自然崇拝の地
- 熊野速玉(くまのはやたま)大社
- 神倉神社の御神体ゴトビキ岩に降臨した熊野の神々を、景行(けいこう)天皇の時代に、現在の地へ社殿を建てお祀りしたことが熊野速玉大社の起こり。初めての宮という意味で、この地は"新宮"と称されました。主祭神は熊野速玉大神(イザナギ)、熊野夫須美(ふすみ)大神(イザナミ)です。
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- 神倉(かみくら)神社
- 熊野の神々が三山に祀られる以前に降臨された聖跡で、降臨されたゴトビキ岩が御神体です。神武天皇御東征の折、高倉下より神剣を授かった場所で日本書紀にも記されています。急峻な538段の石段は源頼朝の寄進といわれています。
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- 熊野本宮大社
- 古来多くの人が詣でた熊野三山のひとつとして、家都美御子大神(けつみこのおおかみ)(スサノオ)を主祭神とし、熊野本宮大社の縁起によると、カムヤマトイワレビコに剣を渡した高倉下は、当社の鎮座する村にいたと伝えられています。境内の社務所前、御神木の下には真っ黒な「八咫烏ポスト」があり、専用の絵馬で手紙を出すこともできます。
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- 那智の滝
- カムヤマトイワレビコが熊野に上陸した際、那智の山に光輝くものを見て探り当てたのがこの大滝といわれています。那智の滝は、熊野那智大社の別宮・飛瀧神社の御神体で、大己貴命(おおなむちのみこと)(オオクニヌシ)を祀ります。熊野那智大社の境内には、先導の役目を終えた八咫烏が姿を変えて休んでいると伝わる「烏石」もあります。
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- 阿須賀神社
- カムヤマトイワレビコが熊野で狭野の次に上陸したとされる神邑は、阿須賀神社の鎮座する地域だったといわれており、参道脇に「神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑(じんむてんのうせいせきくまのかみのむらけんしょうひ)」が立っています。また、中国から農耕や捕鯨、造船などの技術を伝えたといわれている徐福ゆかりの地でもあり、境内には彼を祀る「徐福之宮」もあります。
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【5】みかんのルーツ不老不死の霊菓を探せ
第11代垂仁(すいにん)天皇の時代のこと。田道間守(たぢまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受け、不老不死の霊菓とされる非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を探す旅に出ることになりました。といっても、その霊菓はどんなものか、どこにあるかもわからないもの。田道間守は、日本国内はおろか遠く異国の地まで探し回り、さらには人間界を飛び越え常世国(とこよのくに)まで足を運びます。とにかく探しに探し、気が付けば10年の月日が経っていたそうです。やがて、垂仁天皇を喜ばせたいという執念が実り、田道間守はついに非時香菓を発見! 早く垂仁天皇に届けようと、日本に戻ります。ところが時すでに遅く、垂仁天皇は田道間守の帰りを待つことなく、崩御されていたのでした。
田道間守は果実の半分を皇后に献上し、残りの半分を垂仁天皇の御陵に捧げるのですが、悲しみに打ちひしがれ、泣き叫び続け、とうとうその場で亡くなってしまったそうです。
「海南市」潮風香るみかんの里
垂仁天皇の御陵は宝来山古墳(奈良県)にありますが、この時田道間守が持ち帰った果実を最初に移植したとされているのが、海南市にある橘本神社の旧社地「六本樹の丘」だと伝わり、同社には、田道間守が祀られています。
非時香菓は、時季を選ばずいつでも香りのよい果実であるという意味で、現代の橘のことだといわれています。田道間守が持ち帰った橘はその後さまざまな改良が加えられ、やがてみかんとなったのでした。ちなみに現代のようにおいしいお菓子がなかった昔は、お菓子代わりに橘の実を加工して食べていたようです。このような故事にちなみ、橘本神社はみかんとお菓子の神様として田道間守を祀り、全国の製菓関係者から今も崇められています。
現在のようにみかんが和歌山県の名産品となるのは、記紀の時代からかなり時を経た江戸時代、紀州徳川家初代藩主の頼宣公が入国してからのこと。紀州領内を視察した頼宣公はその山がちな地形を目にし、このような地域でも育ちやすいみかんを植えるように指示しました。以後、和歌山県内でみかんの栽培が始まったといわれており、それが今や、収穫量日本一の産地にまで成長しました。
- 橘本(きつもと)神社
- 「六本樹の丘」がある場所から1907年(明治40年)に熊野古道九十九王子のひとつ、所坂王子跡に遷り、田道間守神と熊野坐大神を祀ります。毎年4月第1日曜には全国から菓子業者が集まり、お菓子の神様・田道間守を称え商売繁盛を祈願する全国銘菓奉献祭が開催されます。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 六本樹の丘
- 「橘本神社」から歩いて10分ほどの所に、田道間守が持ち帰った橘を最初に移植した地があります。植えたのが6本の木だったことから「六本樹の丘」と名付けられ、田道間守の功績を称える石碑の横では今も橘が元気に育っています。その姿を田道間守も喜んでいることでしょう。
【6】神のお告げに従って海を渡った勇猛な皇后
第14代仲哀天皇が狩りをするため、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に滞在中のこと。九州南部に住む土着の部族・熊襲(くまそ)が反乱を起こしたとの知らせが入り、仲哀天皇は急ぎ平定に向かいます。穴門(あなと)(山口県西部)で気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)こと神功(じんぐう)皇后と合流。一行は橿日宮(かしいのみや)(福岡県)に到着するのですが、そこで仲哀天皇に神から「熊襲にこだわる必要はない。西の方に金銀財宝があふれる国(新羅)がある。私を祀れば武力なしで従うであろう」とお告げがありました。しかし、仲哀天皇は「西にあるのは国ではない。海ばかりだ」と神の言葉を疑った結果、仲哀天皇は崩御されてしまいました。
仲哀天皇の穢れを除くために神功皇后は儀式を行い、再度、神の声を問いました。「西の国を従わせるための手段や、この国(日本)を統べるのは腹の中の御子である」などのお告げを聞いた神功皇后は、身重にもかかわらず、御子が産まれないようにとお腹に石を巻いて西の国に遠征し、お告げのおかげで成功へと導くことができました。
その後、大和国(奈良県)への帰路の途中で誉田別命(のちの応神天皇)を出産しましたが、妊娠期間はなんと15カ月であったといわれます。
誉田別命の存在を快く思わなかったのが、仲哀天皇の皇子であり、神功皇后とは別の女性から生まれた麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)でした。2人は誉田別命と皇位を巡り、神功皇后に対して反乱を起こします。
「和歌山市」「かつらぎ町」「御坊市」勇ましき神功皇后が 御子と上陸した地
神功皇后は、誉田別命と一度離れたのち、難波宮を経由して日高(和歌山県日高郡美浜町)で誉田別命と再び合流します。そこで臣下と協議の末、麛坂王と忍熊王を討つことにし、神功皇后はさらに小竹宮(しののみや)に遷ります。ところが突然、昼間であるにもかかわらず、あたりが真っ暗闇に。神功皇后が紀伊国の豪族・紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の祖先である豊耳(とよみみ)に理由を尋ねたところ、小竹神社(現在の小竹八幡神社)と天野神社(現在の丹生都比売(にうつひめ)神社)の神職を合葬したことが原因だと判明。そこで2人の神職をあらためて別々に葬ったところ、太陽の輝きが戻ったのでした。
さて、反乱を企てた麛坂王と忍熊王はその後どうなったのでしょう? 麛坂王は戦の吉凶を神に問うための狩りの最中に猪に襲われて絶命、忍熊王だけで戦を起こすのですが、神功皇后の策により忍熊王は追い詰められた末、自害したのでした。
このような活躍から勇敢なイメージのある神功皇后ですが、誉田別命を出産後、神功皇后自ら政治を安定させたことなどにより、明治時代までは一部史書で神功皇后を天皇と位置付けるものもみられました。また、肖像はお札(政府紙幣)にも採用されていました。
- 丹生都比売神社
- 神功皇后が葬り直した丹生都比売神社の神職、天野祝(あまのはふり)。神功皇后の御子である応神天皇より、紀伊山地の北西部一帯が寄進され社殿が作られました。その後、その神領地の一部が弘法大師空海に授けられたことにより、真言密教の守護神として僧侶からも広く崇敬を受けるようになりました。
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- 小竹八幡(しのはちまん)神社
- 忍熊王との戦の際、神功皇后が葬り直したうちのひとりは、小竹八幡神社の神職だった小竹祝(しののはふり)だったといわれ、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祀る宿禰神社もあります。かつては別の場所に鎮座していましたが、1678年(延宝6年)に、紀州徳川家初代藩主の頼宣公の別邸があった現在の場所に遷りました。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 淡嶋(あわしま)神社
- 新羅からの帰路、嵐に遭った神功皇后は、御神託によって無事紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島に上陸できました。お礼に神功皇后は宝物を納めた小さな社を島に建立。その後、神功皇后の子孫である仁徳(にんとく)天皇が、現地に社を遷したのが由来です。ほかにも「国生み」や「オオクニヌシの国造り」など、古事記に何度も登場します。
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- 衣奈八幡(えなはちまん)神社
- 忍熊王と戦うために日高まで来た神功皇后は、まず息子の誉田別命を上陸させ、自身は迂回して上陸しました。その時、地元の豪族に案内されて休息を取った場所が神社のある衣奈の地。地名の由来は誉田別命の胞衣(えな)(胎盤など)をここに埋葬したからといわれており、境内には胞衣塚があります。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
【7】多くの有力豪族の祖となる歴代天皇の忠臣
和歌山市は、日本古代史で活躍する数々の有力豪族の祖先となる、武内宿禰(たけのうちすくね)が誕生した地でもあります。景行(けいこう)天皇から仁徳(にんとく)天皇まで天皇5代を支え、あるときは当時朝鮮半島にあった国のひとつ新羅へ遠征し、またあるときは大和国(奈良県)でため池を造営。和歌にも秀でるなど、実に多才な人物だったと伝わっています。天皇5代となると、その期間は300年ほど。まさかそんな・・・とは思うでしょうが、彼については、それほどの長寿だったと伝わっています。
「記紀」で語られている彼の功績の多くは、神功(じんぐう)皇后の時代のことで占められています。仲哀(ちゅうあい)天皇を密葬し、神功皇后の新羅侵攻に同行。神功皇后が大和国へ戻る途中には息子である誉田別命(ほむたわけのみこと)の守りを任せられるほど、信望があったようです。
特筆すべきは、彼の子孫の系譜です。武内宿禰には7人の男の子と2人の女の子がいたそうで、男の子はそれぞれ紀氏、波多氏、蘇我氏、葛城氏といった、古代に活躍した有力豪族の祖先となりました。しかも、その後に活躍した豪族まで入れると、なんと27氏の祖先であるといわれています。日本古代史は武内宿禰なくして語れない、ともいえそうです。
和歌山市で生まれた武内宿禰
日本書紀では、景行天皇が国家的な祭祀を行うために孝元(こうげん)天皇の皇孫である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を紀伊国へ派遣し、その滞在中、紀伊国の豪族・紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の祖先である菟道彦(うじひこ)の妹・影媛(かげひめ)との間に武内宿禰が生まれたとされています。古事記では少し言及が異なりますが、生まれが現在の和歌山市だとの記述は同じで、その産湯に使われたとされる井戸が、「武内宿禰誕生井」として武内神社に残されています。江戸時代にはこの井戸が重要視されたようで、紀州徳川家に子どもが生まれた際には長寿の武内宿禰にあやかり、この井戸の水が産湯に使われました。
- 安原八幡(やすはらはちまん)神社
- 忍熊王(おしくまのみこ)との戦いのために武内宿禰に御子を託した神功皇后は、衣奈(えな)方面へ迂回したのち、近くの津田浦という場所から再び紀伊国に上陸したといわれています。その際に頓宮を建てて滞在したのが安原八幡神社。神社の南東にある奥宮には、武内宿禰が誕生したと伝わる武内神社があります。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 木本(きもと)八幡宮
- 神功皇后から息子の誉田別命を預かった武内宿禰が、その守護のために頓宮(とんぐう)(仮の宮)を建てたのが、神社のある場所。また、八咫鏡と同体の日像鏡は、日前神宮・國懸神宮に祀られる前に、アメノミチネによって木本八幡宮に一時祀られていたといわれている。
- 公式サイト
- 武内(たけうち)神社
- 武内宿禰を祀る古社で、田園風景に囲まれたのどかな場所にあり、境内には、武内宿禰誕生井が今も残ります。また神社のある地域は、神功皇后の時代にはすでに武内宿禰の一族が居を構え、勢力を誇っていたと伝わっており、その安心感から、神功皇后は武内宿禰に御子を託したともいわれています。
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紀州徳川家も大切にした武内宿禰誕生井
紀州徳川家に子どもが生まれた際にはその水が産湯として使われた、武内神社にある武内宿禰誕生井。ここが重要視されてきたのは、長寿にあやかるためだけではありませんでした。彼は忠臣としても知られ、また子孫も繁栄しています。このような人物像が当時は理想的だったことも、大きな要因です。
【8】聖帝、色を好む…嫉妬深き皇后の涙
仁徳天皇は、治世が「聖の帝の世」と称えられるほど、民衆のために政治を行った天皇として知られています。難波の高津宮(たかつのみや)で天下を治めていた仁徳天皇はあるとき、高い山から見渡した国土に炊事の煙が立っていないことから、民の貧しい暮らしぶりに気付きます。そこで3年間の免税を行って民の生活の立て直しを図るとともに、自身の生活も倹約し、徹底して民を大切にしたそうです。しかし、仁徳天皇に「恋多き帝」という別の顔もあったために、ちょっと困ったことになってしまいます。
仁徳天皇の皇后は大和の豪族である葛城(かつらぎ)氏の娘・磐之媛(いわのひめ)ですが、彼女は記紀に登場する古代の女性の中でオオクニヌシの妻・スセリビメと並ぶほど気性が激しく、嫉妬心が強い女性だったといわれています。古代の天皇は皇后のほかに妃、夫人、嬪という身分の女性を何人も持つことは一般的でしたが、仁徳天皇は磐之媛の嫉妬により、女性たちを宮中に入れることもできません。
磐之媛が紀伊国の熊野岬へ出かけている間に・・・
以前から八田皇女(やたのひめみこ)を妃にしたいと考えていた仁徳天皇でしたが、そのことを磐之媛に相談するも、当然ながら許されませんでした。
あるとき磐之媛は、神事の酒宴で使う柏の葉を採るために紀伊国の熊野岬へ出かけることに。これを絶好の機会だと思った仁徳天皇は、八田皇女を宮中へ招き入れてしまうのでした。
熊野岬からの帰路、難波の港でそのことを知った磐之媛は怒り心頭に発し、採ってきた柏の葉を投げ捨て、山城の筒城岡(つつきのおか)(京都府京田辺市)に籠もってしまいます。慌てた仁徳天皇は和歌を送るなどさまざまな努力で磐之媛の心を和らげようとするのですが、まるで効果なし・・・。磐之媛は怒りおさまらぬまま山城に留まり、5年後亡くなったのでした。
古事記ではこの事件について、仁徳天皇と磐之媛が後日和解したと記されています。神事に使う葉を投げ捨てるほどの怒りですから、そう簡単には和解できなかったことでしょう。なお、この話に出てくる熊野岬は、本州最南端の潮岬だと伝えられています。
「串本町」本州最南端の記紀スポット「潮岬灯台」・「潮御崎神社」
磐之媛が柏の葉を採りに訪れたころは潮岬の石窟に御祭神の少彦名命(すくなびこなのみこと)が祀られていたと伝えられています。現在潮岬灯台が立っている旧社地を経て、明治2年(1869)に現在の地に潮御崎(しおのみさき)神社は遷座。潮岬は風がとても強く吹く場所のため、境内が石垣で囲まれているのも特徴です。
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磐之媛はこの葉を採った?マルバチシャ
潮御崎神社の入口付近と拝殿前に、マルバチシャの木が生えています。「御綱柏」と名付けられたこの木の葉こそ、磐之媛が投げ捨てた柏の葉だと伝えられています。ちなみにマルバチシャは沖縄県から千葉県あたりに分布していますが、近年は絶滅が危惧される希少な木です。
【9】名湯を広めた皇子の知られざる悲劇
皇極(こうぎょく)645年(天皇4年)の乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智(てんぢ)天皇)が中臣鎌足(なかとみのかまたり)らとともに、権力者だった蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)父子を滅ぼします。皇極天皇はこの件で皇位を弟に譲り、孝徳(こうとく)天皇が即位。また、大化の改新を主導した中大兄皇子は皇太子となり、政治の実権を握ることとなるのでした。
孝徳天皇は都を難波長柄豊碕(なにわながらとよさき)の宮に遷しますが、8年後の653年(白雉(はくち)4年)、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを孝徳天皇へ進言。しかし聞き入れてもらえなかったため、中大兄皇子は孝徳天皇を残し、皇后やその他大勢を連れて飛鳥へ戻ってしまいます。孤立した孝徳天皇は打開策に悩み苦しみ、1年後に崩御されたのでした。この時、孝徳天皇の子・有間皇子はまだ6歳でした。そこで孝徳天皇のあとは皇極天皇が再び皇位につき、斉明(さいめい)天皇として政(まつりごと)を行います。皇太子の中大兄皇子にとって、聡明な有間皇子も天皇の子であり、皇位継承の最大のライバルでした。
牟婁の湯(白浜温泉)を称賛し、広めたとされる有間皇子
有間皇子は争うことを嫌い、自らを病であるように装いました。657年(斉明天皇3年)、有間皇子は牟婁の湯に出かけ、そのよさを斉明天皇に報告します。「あのあたりの風光に接しただけで病気が癒されました。天皇もお出かけになられてはいかがですか」と。少し前に孫を亡くし、悲しみに暮れていた斉明天皇は大いに喜び、翌年に中大兄皇子らを連れて牟婁の湯へ行幸しました。
事件はその留守中に起こります。蘇我入鹿の従弟・蘇我赤兄(あかえ)が有間皇子邸を訪れ、謀反をそそのかしたのです。あろうことか有間皇子はその言葉を信じてしまい、翌日には赤兄邸を訪問。ともに謀議したはずの赤兄の兵に捕らえられてしまいました。赤兄と中大兄皇子は裏でつながっていたのでしょう。
牟婁へ護送された有間皇子を待っていたのは、中大兄皇子による尋問。なぜ謀略を企てたのかとの問いに、「天と赤兄が知っている、私は何も知らない」とだけ答えた有間皇子。その後、都へ送られる途中、藤白坂(海南市藤白)で絞殺され19歳という短い生涯を終えたのでした。
「白浜町」有間皇子が湯浴みをした 日本三古湯のひとつへ
- 有間皇子之碑(ありまのみこのひ)
- 日本三古湯として古くから世に知られる白浜温泉だが、きっかけとなったのは、有間皇子が斉明天皇に温泉地のよさをすすめたという故事によります。その功績を称える顕彰碑が白浜の中心地である白良浜近くに建てられており、悲劇の皇子は町の恩人として、今もこの地では大切な存在とされています。
- 南紀白浜観光協会 公式サイト
- 熊野三所(くまのさんしょ)神社
- 有間皇子にすすめられて白浜へ行幸した斉明天皇が立ち寄った際に座ったと伝わる「斉明石」が御神体。斉明天皇以後、持統(じとう)天皇や文武(もんむ)天皇をはじめとした多くの皇族や貴族が訪れています。県の天然記念物に指定されている社叢(しゃそう)の森は、波音がこだまする心地よい空間です。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 湯崎温泉碑
- かつて牟婁の湯と呼ばれていた白浜温泉は、当初海岸沿いにいくつもの温泉があったといいます。その後湯崎温泉と呼ばれるようになり、明治時代になると「湯崎七湯」といわれる7つの温泉が人気を集めました。その歴史やいわれを記載した碑が、「湯崎七湯」のひとつだった礦湯源泉近くに建てられています。
- 藤白(ふじしろ)神社
- 有間皇子が19歳という短い生涯を終えた藤白坂の入口にあり、斉明天皇が牟婁の湯へ行幸した際に祠を建てたと伝わる地。境内には有間皇子神社があり、「有間皇子まつり」が毎年11月11日に開催されます。境内には有間皇子を偲ぶ万葉歌碑も立っており、熊野へ入る一の鳥居と称されます。
まだまだある記紀ゆかりの地
「わかやま記紀の旅」の物語(9つ)で紹介している地以外にも、和歌山県には『古事記』『日本書紀』ゆかりの地がまだまだあります。併せて巡るとより深く「わかやま記紀の旅」をお楽しみいただけます。
- 宇治神社【関連物語7】
- 紀直紀伊国の遠祖である宇豆比古(うずひこ)が創建した社。第8代孝元天皇の時代、ヤマトタケルノミコトの弟である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が紀の国に派遣され、宇豆比古の妹である影姫を娶り、武内宿禰(たけうちのすくね)を生んだとされています。武内宿禰は、景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇の忠臣として数々の有力豪族の祖として活躍しました。※宇豆比古は、兎道彦(うじひこ)とも称します。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)【関連物語2】
- 日本各地に樹木の種を蒔き、緑豊かな国へと変えたイタケルとその妹であるオオヤツヒメとツマツヒメの姉妹神。三神は全国に植樹したのち紀伊国に鎮座しており、当社には、姉神のオオヤツヒメが祀られています。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 名草神社【関連物語3・4】
- 天下平定の旅に出たカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)は、紀伊国名草邑に到着。そこで地元の豪族である名草戸畔(なぐさとべ)を倒しました。当社は、名草戸畔の祖先にあたる名草彦命(なぐさひこのみこと)と名草姫命(なぐさひめのみこと)を祭神としています。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 有間皇子史跡【関連物語9】
- 第36代孝徳天皇の皇子として生まれながらも政争に巻き込まれ、藤白坂で処刑された悲劇の皇子・有間皇子(ありまのみこ)。藤白坂の登り口には墓地伝承地が残っており、有間皇子が詠んだ歌の歌碑も立てられています。
- 海南市 公式サイト
- 千種神社(ちぐさじんじゃ)【関連物語3・4】
- 天下平定の旅に出たカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)との戦いに敗れた地元の豪族・名草戸畔(なぐさとべ)の身体は頭、胴、足に分けられ地元に祀られました。当社には、足が祀られており、古くから「あしがみさん」と呼ばれ親しまれています。
- 和歌山県神社庁 公式サイト
- 宮原神社【関連物語6】
- 第14代仲哀天皇の后であり、女傑として知られる神功皇后(じんぐうこうごう)とその息子である第15代応神天皇(おうじんてんのう)などを祀っており、応神天皇の娘が住んだ里とも伝えられています。弘仁7年(816年)に宇佐神宮(大分県宇佐市)より勧請されました。
- 公式サイト
- 岩内一号墳【関連物語9】
- 7世紀中頃以降に造営された終末期古墳の一つ。第36代孝徳天皇の皇子として生まれながらも政争に巻き込まれ、19歳という若さでこの世を去ることになった悲劇の皇子・有間皇子(ありまのみこ)が被葬者として有力となっています。
- 御坊市 公式サイト
- 太刀ヶ谷神社(たちがたにじんじゃ)【関連物語3・4】
- 天下平定の旅にて、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が海路を南下し熊野へ向かう途中、この地に上陸し戦勝を祈願したと伝えられ、それが現在、当社がある場所であるとされています。
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- 畠島(はたけじま)【関連物語3・4】
- 天下平定の旅で海路を南下し熊野へ向かったカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が上陸し、旗を揚げたと伝えられています。白浜町立ヶ谷の沖に位置しており、畠島の名前の由来は、旗上ヶ島が訛ったものといわれています。※上陸(立入り)することはできません。
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- 神武天皇聖蹟狭野顕彰碑【関連物語3・4】
- 天下平定の旅にて紀伊国名草邑で戦い勝利したカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)の一行は、さらに海路を南下。やがて熊野に到着し、最初に上陸した地が新宮市佐野であるとされています。
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